「松本……あの……ちょっと相談があるんだけど……」
電話の向こうの声は、
いつもより少し元気がありませんでした。
「オレは上のパート?下のパート?」
「お前はメロディーだから上のパートだよ」
そう答えて電話を切りました。
ところが、
五分もたたないうちに、また電話が鳴りました。
「最初の音は何?」
「ソだよ」
そんなやり取りをして、また電話を切りました。
すると、
さらに五分もたたないうちに、また電話が鳴りました。
「ごめん、笛持って帰るの忘れた……
妹ので練習するわ」
そんな電話でした。
今思えば、
あの何度も鳴った電話も、
彼なりの一生懸命だったのだと思います。
そして迎えたテストの日。
二人で演奏しました。
決して上手な演奏ではなかったと思います。
けれど、
あの時の彼は、
前日までとは明らかに違っていました。
一生懸命、
必死に、
練習してきていたのです。
学期末、通知表が返ってきました。
音楽の成績は、「4」でした。
私は驚きました。
正直に言うと、
技術だけを見れば、
4という評価ではなかったと思います。
けれど彼は、満面の笑顔でこう言いました。
「松本~~~~!
オレ、音楽4がついたぞ!」
その姿を見たとき、
私は強く心を動かされました。
それ以来、彼は音楽が好きになったのです。
それまで音楽が得意とは言えなかった彼が、
楽しそうに授業を受けるようになりました。
うちの先生は、
結果だけを見て評価したのではありませんでした。
不安になりながらも電話をしてきたこと。
何度も確認してきたこと。
当日、一生懸命に演奏したこと。
そんな努力の過程や、伸びようとする姿を、
きちんと見て評価してくださっていたのだと思います。
当時の私は、
そこまで言葉で理解していたわけではありません。
けれど、
「うちの先生はすごいな……」
と、心の底から感じたことは、
今でもはっきり覚えています。
自分も音楽の先生になって、
音楽を好きになる生徒を増やしたい。
そう心が動いた、最初の瞬間だったのだと思います。
中学三年生になる頃、
私は将来について考えるようになっていました。
周囲は受験の話をし始め、
進路希望調査の紙が配られます。
5教科250点満点の実力テストでは、
行きたい高校はギリギリの状況でした。
正直に言うと、
将来何になりたいのかまでは、まだはっきりしていませんでした。
ただ、
毎日吹奏楽をするのが好きでした。
学校が終われば部活。
毎日楽器を吹いている時間が、
何より楽しかったのです。
そんな中で出会った、もう一人の先生。
吹奏楽部を指導しておられた先生です。
それはそれは厳しい先生でした。
部員は八十名ほど。
その中で、中学一年生でコンクールメンバーに入ったのは、私一人だけでした。
当然、先輩たちは面白くありません。
呼び出され、
厳しい言葉をかけられたこともあります。
今でも、その時のことははっきり覚えています。
中学三年生の先輩たちは、本当に上手でした。
技術的にも、音楽的にも、
圧倒されるような演奏でした。
そしてその演奏を指揮していたのが、その先生でした。
しかしその先生は、
卒業式の片付けの際、脚立から転落し、
生死をさまようほどの大けがをされました。
部活は、先生不在の状態が続きました。
そして迎えた、私たちの学年。
先生は、奇跡的に復帰されました。
私たちのコンクールは、
復帰された先生の指揮でのエントリーでした。
練習も真剣に取り組まず、
毎日ダラダラと意味のない楽しさで時間が過ぎていました。
六月中旬、
ようやく自由曲が決まりました。
リムスキー=コルサコフ作曲
「シェエラザード」第4楽章。
そして迎えた吹奏楽コンクール。
課題曲は、兼田敏先生の「嗚呼!」。
ステージに立ち、
先生の指揮棒が振り下ろされました。
冒頭のtuttiが、バラバラでした。
「あっ」
そう思った瞬間のことを、
今でも鮮明に覚えています。

コンクールはやり直しがききません。
そのまま演奏は続きました。
結果は、銀賞でした。
帰りのバスの中。
悔しくて、悔しくて、悔しくて、
情けなくて、悲しくて――。
そのとき、心の中で思いました。
「将来、音楽の先生になろう」
そして、
鳥取県の中学校の音楽の先生になって、
母校を指揮する。
そう誓いました。
あのリコーダーのテストで感じたこと。
吹奏楽部で見た、
本気で音楽に向き合う姿。
そしてコンクール。
すべてが重なって、
その思いにたどり着いたのだと思います。
今振り返ると、
私の人生を動かしたのは、二人の先生でした。
一人は、音楽の意味を教えてくれた先生。
もう一人は、音楽に本気で向き合う姿を見せてくれた先生。
帰りのバスで誓った、あの日のことを、
私は今でも忘れていません。
(つづく)




